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長篠の戦いリンク集

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3 年5月21日(1575年6 月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。 通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされるが、様々な論点に異論が存在する。

長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3000丁を用意し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。 通説である鉄砲3000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。これは甫庵本の3000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。 太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」(約1000 丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1500丁)、3000丁とは書かれてない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝や筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われる。つまり、大田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。 当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えた場合、これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役32人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。鉄砲は高価で貴重な兵器であったため、軍役として鉄砲を用意するよう義務付けられるのはある程度大身の者であることを考慮すると、この軍役率はそのまま参考にはならない。しかし、長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って3万、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほど用意出来た可能性はある。 以上の内容を考慮して織田家が使用した鉄砲数が通説よりも少ない1000丁だったとみても、当時のことを考えれば十分に特筆すべき数ではある。また、武田軍全軍が通説通り1万数千人と仮定した場合、勝頼本隊を別にして、戦死した馬場隊・内藤隊・山県隊・真田兄弟隊・土屋隊や、撤退した穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊と分けて行くと、部隊ごとに差はあるにしても一部隊の人数は2千人に達しない。この部隊単位で考えれば、織田軍の鉄砲が1000丁であったとしても、相対的に相当な数である(また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある)。 次に「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。しかし、実在は疑問視されている。『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されていたので、所蔵する図書館もある)。 ただ、先述のように信長がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んだことは疑いようがない。『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」という鉄砲の打撃力を示す、恐ろしい描写がある。より具体的には「長篠の戦いの緒戦で、武田軍は家老山県昌景を一番手として織田陣営を攻め立てたに対し、織田軍の足軽は身を隠したままひたすら鉄砲を撃ち、誰一人前に出ることはなかった。山県隊はさんざん鉄砲に撃たれてほうほうの体で退却し、次に二番手、三番手と次々と新手を繰り出すが、それもまた過半数が鉄砲の餌食になった(要約)」とされる。ただし、# 両軍の兵力数と損害数に記述されるように、本当にそれだけの損害を与えられたのかは別に疑問が残る。とはいえ、死なずとも負傷兵となれば、これを引かせる必要があり、負傷した人間と後送させるには、少なくとも1名、つまり計2人以上を前線から遠ざけることになる(この考え方は現代でも行われている)。具体的な運用法は不明だが鉄砲隊をある程度集中した部隊として機能させていれば、1度の射撃で部隊単位の戦力を大きく消耗させる事は不可能ではなく、結果的に三段撃ちが無くても、武田軍を消耗させる事は難しくないといえる。

武田軍が大敗した理由としては、通説では武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できず、また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させ、著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。しかし、# 織田軍の鉄砲数と三段撃ちに記述されるように三段撃ちは実在が疑わしく、また、武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい(火縄銃の有効射程は50〜100メートル)。『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。 鉄砲による損害に関しては「三段撃ちこそ無かったものの、1000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないか」とする説がある(井沢元彦ほか)。過去に織田軍も雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃主を秘匿するために行った囮の空砲の速射で大混乱に陥ったことがあり、当時の軍隊には鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はなく、過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた面は否定できない。また、当時として異例の野戦築城は、それ自体が重要な史実であると同時に、当然武田軍にとって初めての経験であり、従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。 他に大敗の理由としては武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにも関わらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君、武田信豊)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。 間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃により退路を脅かされたため、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる。また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられている(特に信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであった)。このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる。

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